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2016年春号 (4-6月)

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まるごとのチンパンジーをとらえる

「一人」への教育の力を示した松沢哲郎さん

「ホーフホフホフホフホフ、ホーフホーフホーフホーフ、ホフホフホフホフ、ホゥアー!
扉を開け、屋外に出るなり松沢哲郎(京都大学霊長類研究所教授)さんが腹の底から出てくる大きな声でチンパンジーに呼び掛けた。それに応えてチンパンジーたちの鳴き声があちらこちらから上がった。常にチンパンジーとともにいる松沢さん。その関わりから、一人ひとりの可能性を引き出す教育や科学研究の姿勢を、動物写真家のさとうあきらさんがインタビューした。

文と写真 さとうあきら

松沢哲郎さん
松沢哲郎(まつざわ・てつろう)
1950年生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。理学博士。京都大学霊長類研究所教授。公益財団法人日本モンキーセンター所長。国際霊長類学会会長。紫綬褒章などを受賞。文化功労者。『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)で、科学ジャーナリスト賞、毎日出版文化賞受賞。『進化の隣人 ヒトとチンパンジー』『チンパンジーの心』『チンパンジーはちんぱんじん』(いずれも岩波書店)など著書多数。

ヒト科の「子たち」の先生

「僕は毛色の変わった生徒を持っている学校の先生みたいなものです。ここには13人の黒い毛の子たちがいます。僕は39年間、ここで先生をやっている。チンパンジーという、ゲノムの塩基配列では98 . 8%人間と同じ、1.2%が人間と違う子たちです。一人ひとりに目配りしながら、その子たちをどうやって教育したらいいのかなとずっと考えているのです」

愛知県犬山市の日本モンキーセンターに隣接する京都大学霊長類研究所。松沢さんはチンパンジーたちが毎日、学習にやって来る勉強部屋を案内しながら、そう語り始めた。

松沢さんは、チンパンジーのことを「1頭(いっとう)」ではなくて「1人(ひとり)」と呼ぶ。霊長類のヒト科にはオランウータン、ゴリラ、ボノボ、チンパンジー、そして私たちヒトが分類されているが、人間だけを区別する理由はない、同じ仲間だという松沢さんの思想に基づいているのだ。

「一人ひとりが違うチンパンジー。この子はじゃんけんのグー、チョキ、パーを理解できるのに、その子の母親は勉強に対するモチベーションがとても低く、グーとチョキの関係が分からない。だから僕は、この子たちをどう教えたらいいかを日々考えている。それでもジャンケンという、動物の世界にはない『円環的な序列』を、チンパンジーがどのように学ぶかという先駆的な研究を7人に対して行って、ほぼ4人ができるようになってきました」

アイはなぜ「天才」と呼ばれたか

松沢さんの研究成果で世界の注目を浴びたものの一つに、チンパンジー・アイの数の勉強がある。1から9までの数字がパソコン画面にアトランダムに表示される。画面にタッチして数字を昇順に回答する。同じ問題を大学院生がやっても、アイの方が早く回答できる。数字の順序を理解して使いこなしているのだ。

「チンパンジーのアイは『天才だ』とよく言われますが、アイはただの『普通』のチンパンジーなんです。むしろ、僕たちがアイにどのような教育を行って天才だと思われるようにしたのかが重要なのです。僕らが示すまで、誰もが、チンパンジーがぱっと見て1から9の数字がどこにあるかが分かるなんて思っていなかった。世界中の人たちが、人間こそ一番賢い、少なくとも知性の面では人間が一番だと思っていた。だから僕らが『数字の記憶は人間よりもチンパンジーの方がいいですよ』と、実際にやって見せた研究に価値があったのです」と研究の意義を話してくれた。

野生のチンパンジーの親は子に「教えない教育」を、子は「見習う学習」をすることが松沢さんたちの長年の研究で明らかになった。だが、この研究所では人間が「教え込む教育」をしている。「一人ひとり」の可能性を引き出す松沢さんの研究は、人間の教育や保育などの関係者からも注目されており、講演の依頼が絶えない。

勉強部屋でのアイと松沢さんの様子
アイが勉強部屋に入って来た。松沢さんは後から、学習道具が入ったバスケットを持ってやって来た。まずは、アイとあいさつ。あいさつはチンパンジーの社会でも、とても大切な行為で、決して欠かすことはない。サイコロ型の木片を渡すと、アイはいとも簡単に木片を重ねて積み木をした。これだけの数の積み木ができるチンパンジーは、世界でも数えるほどしかいない。

まるごと知りたい

「人間とは何かを知りたい。人間の心を知りたい。で、そのとき、人間の心を知るために人間じゃないものの心を調べる。それがチンパンジーだったんです」

松沢さんは人間を探究する哲学を目指して京都大学文学部に入った。1969年から大学紛争で2年間、授業がなかった。高校時代から山岳部に所属していたこともあって、大学でも山岳部で登山を続けた。それが後年、フィールドワークに生かされることになった。

チンパンジーを「まるごと」理解することが重要だと松沢さんは強調する。その「まるごと」とは何だろうか。

「僕が30年間アフリカに通い続けているのは、間違いなくフィールドワーカー、野生チンパンジーの研究者だからです。彼らの自然の暮らし、生態をよく知っている、チンパンジーの生き物としてのあり方をよく知っている。でもそれだけではなくて、日本で認知研究もする。チンパンジーの数の概念、色の分類、聴覚、記憶の容量などの研究はアフリカではできないでしょう。チンパンジーについて本当に全部知ろうと思うと、どうしても日本で身近に接する中で研究をすることが必要になるのです」

野外研究を基盤に認知研究もするチンパンジー研究者は、世界で松沢さんしかいない。その両方をやることで、初めてチンパンジーのまるごと全体が分かると確信しているのだ。

心を見えるようにする

「心の中という、分からないものをどうやって分かるようにするか。僕が一貫してやっているのは、チンパンジーをさまざまな角度から照射することによって、はっきりと目に見える形で示す。それを数値として、客観的な事実として捉えようとしているのです」

だから、松沢さんは「偏差値」についても「心理学者が考えついた優れた発明の一つ。物事を測る一つの尺度、統計学上の数値」として評価している。

「ただ偏差値教育などと、人々が誤解したり誤用したりしている。それぞれの子にそれぞれの背景と適性があるわけだから。一人ひとりが大切で、素晴らしいんですよ、どっちが上とか下ということはないんだ。偏差値の意味を正しく知れば、例えば人の賢さとか知性というものは、偏差値という一次元では測れないことが分かります。身長や体重のように正規分布はしないということを知れば、一人ひとりの特性に合わせた教育にならざるを得ないわけじゃないですか」と話す。

小学生時代の教育こそ

男三人兄弟の末っ子として育った。両親は小学校の教師だった。「夕食の席での会話は『きょう、うちの子どもはこうだった』と母親が言うと、父親が『いや、うちの子どもはこうだった』と言う。それは僕たち兄弟のことではなく、両親がそれぞれ担任しているクラスの子たちの話をしているわけです。僕はそれが家族の会話だと思って育ってきた。だから自分も教師になるように育った。教育というものがすごく大切だという考えは、そのころに形成されたと思っています」

松沢さんは大学の教師として、これまでに40~50人の研究者を育て、いまもチンパンジー13人の先生として勉強を教えている。そんな教育者としての松沢さんは、小学校教育の大切さを特に力説する。「教育はしっかりやらなきゃいけない。しかもその年代に合わせて必要なことがあるのです。規則を守る、あいさつをするといった以前の、困った人がいたら助けるといった徳目、人間としての振る舞いです。それは小学校の学齢期までであり、親の責任が大きい。親の背中を見ながら子どもは育つからだと思うのです」

松沢さんが「遺書のつもりで書いた」という『想像するちから』は、これまでの比較認知科学の一つの到達点を示していると、高く評価された。松沢さんは、もしその続編を書くとしたら、なぜ想像する力が必要なのか、何のために使うのかをテーマにするという。「想像する力があるからこそ相手を思いやれる。思いやるからこそ分かち合うわけじゃないですか。それには、やはり学齢期における家庭教育が大事なのです」と繰り返した。

「自然への窓」 

39年前、地下の一室でアイというチンパンジーと出会ったことから全ては始まった。「チンパンジーをまるごと知りたい」という松沢さんは、チンパンジーだけでなく飼育している動物の環境の改善を行う「環境エンリッチメント」を日本で最初に提唱した。「エンリッチメント大賞」(主催:NPO法人市民ZOOネットワーク)の審査委員を長く務め、日本の動物園や水族館に環境エンリッチメントの考え方を広く普及させ、自ら実践してきた。

「動物園は『自然への窓だ』って僕は皆さんによく言います。しかし、やっぱり切り取られた自然の窓でしかないのです。けれども、その窓を通して、本来のチンパンジーの生活、本来のアフリカの生活、本来彼らはどういう生き物なのかということを知り、自分たちはどういう生き物なのかということを考えるところが動物園なんです」

公益財団法人日本モンキーセンターの所長も兼務している松沢さん。「モンキーセンターは博物館登録をしており、一般の動物園とは違って集客を主眼に置いてはいません。それでも、年間15万人もの来園者があるのです。社会実践の場として大いに活動し、内部の変革もしていきたい」と意欲を見せる。松沢さんの「まるごと」理解のスピリットは、動物たちが生きる自然の世界に人々をつなぐ教育活動にも広がっている。

パソコンの画面に出たじゃんけんの手
じゃんけんの手がパソコンの画面に出る。勝つ方の画面に指をタッチすると正解だ。
状況を観察する様子
パソコンを使うのは、人が介在しないため客観的な結果を正確に集計できるから。しかし、常に人が状況を観察していなければ合理的な論述はできない。
野外の運動場
野外の運動場は、日本で最初の15mのトリプルタワー、緑の木々、小川も流れており環境エンリッチメントを実践している。
運動場を見渡せる建物の屋外
運動場を見渡せる建物の屋外。ここから毎日、チンパンジーたちに大きな声で呼び掛ける。

取材を終えて

動物の本がつないだ縁

松沢さんが最初に出版した本は『ことばをおぼえたチンパンジー』(福音館書店、1985年)。松沢さんの文に、動物画家で著名な薮内正幸さん(故人)が絵を添えた。当時、薮内さんの自宅で仕事をしていたさとうあきらさんは、薮内さんが楽しそうにその原画を描いているのを見ていたという。さとうさんは近年、「エンリッチメント大賞」を主催するNPO法人市民ZOOネットワークのスタッフとして活動している。こうした縁も重なって今回、松沢さんへの2日間にわたる取材が実現した。取材を終えたさとうさんは「松沢さんの著書は、どれも体験したご本人だけが書ける内容です。『サイエンスウィンドウ』の読者の皆さんも書店や図書館で、ぜひ手に取ってください」と推奨する。(編集部)

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